| いのち誕生に立ち会った人 |
私は、孫の出産に立ち会いませんでした。交流事業に参加するため、山陰の地へと旅立っていたのです。私の代わりに産気づいた娘を介抱し、娘の出産に立ち会ったのは、当時我が家に滞在していた外国からの留学生でした。それから数年の後、孫とその留学生は再会することになりました。不思議なことに孫は出会った瞬間その人のもとへ駆け寄りました。憶えているはずもない、その人のところへです。この人が私の誕生を見守ってくれた人、とでもいうように。そして、別れの時、旧知の人との別れを惜しむがごとく泣いたのです。いのちを産み、育てるのは血縁だけじゃないのですね。 |
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| 心残り、癌病棟にて |
癌を宣告され、長い入院生活していたにも関らず、私は病気の深刻さに蓋をしていました。病院では親切な人々に恵まれ、毎日愉快に暮らしていました。そんな私と全く違った患者は28歳の女性でした。彼女は3歳の子供を残し、死んでいかなければなりませんでした。それは母親としてどんなに辛かったことでしょう。ところが当時の私は、その辛さに直面できなかった。ある時、病棟で彼女が私に何かを伝えようと、その重い体を引きずって近づいてきました。それなのに、「今、時間ないから」と立ち去ってしまった私。そして彼女は亡くなりました。なんという取り返しのつかないことをしてしまったのでしょう。自分の辛さ、そして彼女の痛みと辛さを受け入れられなかった当時の私。必死で辛さを伝えようとした彼女を受け止められなかったことが今でも気がかりでなりません。 |
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| 悲しみ、のち、歓び |
妻も私も仕事に加えてボランティアに携わり、使命を担って社会に関っていました。やるべきことは続出し、しわ寄せは子供のところに及びました。ふと気がつくと思春期に至った娘は、荒れ果てた生活をするようになり、私たちは深い悲しみの中にいました。そんな娘が自分の進路を見出し、仕事を始めたある時、ふと漏らしたのです。働く女性として社会に貢献している母をいかに誇らしく感じているか、ということを。娘がその場を去ったとたん、それまで平静を装っていた妻が号泣しだしました。その昔、自らの使命に対する誇りと娘への罪悪感との狭間でどんなに苦しんだのでしょう。そしてその苦しみを超えた今、どんなにか嬉しかったのでしょう。母として体験した彼女の悲しみと喜びは、私のものを上回るものなのかもしれません。 |
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| 60年後の和解 |
戦時中、しかも古くからの慣習を守る地方のことでした。空襲を受けて逃げ惑う母の眼中には私も妹もなく、跡取りである弟だけを守ろうと必死でした。その後、「身を挺して息子の命を守った誇り」を母が繰り返し語るたび、私の胸は痛み傷つきました。そんな母が許せないまま60年。危篤になった母に私は最後の願いを叶えてほしいとねだったのです。「お母さん、待ってて。私のアキレス腱が治るまで。私が会いに行くその時まで。」医師から長くないと言われていたにもかかわらず、母は生き延び、待ってくれました。母が自分の最期の生命力をもって、私への償いをしているかのようでした。私は初めて母に愛されていたという感覚を知りました。そして母を愛していたという感覚も。 |
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