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東洋大学社会学部講義での公演

感想・3

 このプレイバッカーズの演技を通して私が思った事は、人はさまざまな体験や経験で得た、知識を自分のためはもちろん、人のために役立てようとする事が、自然でもっとも大切なのだと思った。


 12月7日、金曜日7時限に行われたプレイバックシアターを見て、正直いろいろ考えた。司会の方が、「プレイバックシアターは問題提議をするものではない。」と、おっしゃっていた。しかし、プレイバックシアターを見た日から、自分の中で、もやもやとしたなにかがあって、そこから葛藤が始まった。
   −中略−
 医療・福祉関連の三つのケースは、周りにいた人もそうだが、プリントに書いてあった「自分の経験・体験を思い出した。」という類の感想が気になった。自らの人生経験が希薄なせいか、演技には心を打たれたのだが、共感はできなかった。その理由を探るべく、三つの話を思い返しているうちに、今頃になって映像が浮かび上がってきた。先生のケースでは、友人との価値観の差からの衝突。ボランティアの方のケースでは、新しい職場での自分の未熟さからのとまどい。新米看護婦さんと死についてのケースでは、自分ではどうしようもなかったときの焦燥感や、涙が出そうになったことを思い出した。よく考えると、三つのケースは意外とよくある話なのではなかったであろうか。あのときは、客観的に見ていたのかもしれない。演技を見て、プレイバックした後にみんなが言っていた「全くその通りだった。」「あのときの場面が、よみがえった。」など、これらの言葉のどこかで、否定的に見ていたのかもしれない。素直に見ることができなかった。
 共通点はなさそうに見える経験や体験を、自分なりにリンクさせてプレイバックシアターの感動は倍になった。あの時これができていたら、もっと楽しめたに違いない。あれから一週間くらい経過して、プレイバックシアターのすばらしさや魅力が、この疑い深い、ひねくれ者にも、ようやく理解できた。プレイバックシアターを通して、自分自身の問題も、見ることができたのではないだろうか。その意味で、提議というか、声亡き声で、意見を言われたようだった。しかし、とても心が晴れた。始終不思議な感覚にとらわれっぱなしのプレイバックシアターだった。


 先日の授業は大変興味深く受けることができました。プレイバックシアター!そういうものがあるとは、驚きです。冒頭、今日一日何をしていましたか?話してくださいと言われ、私の一日を話したら、どんなにすてきだろうと思いましたが、勇気がなく、手を挙げることができませんでした。その方が体験したことに沿う、うれしいこと、悲しいことを共有する、共有することで人は癒される。癒されるものなのですね。
   −中略−
 わたしは自分の住んでいる地域でボランティア活動の、まねごとのようなことをしています。他人のためになにかをしているという感じはある。だが、結論して言えば、自分に返ってきていることを感じはじめていました。期せずして最後に、劇団の中心者の方が、その活動は誰かのために心をこめてさせていただいているが、しかし、与えているようだけども、実は自分たちが与えられているのだと言われていたことが、とても印象に残り、私も、実感しました。このような機会を与えてくださり感謝いたしております。


 ボランティア先での男性の体験をもとにしたプレイを観て、鳥肌がたった。そして、二人が叫びあう場面で泣きそうになった。
   −中略−
 もう10年以上前のことになるが、高校で、心身障害者の施設を訪問するボランティア活動があった。希望者のみの参加であったが、私は将来看護婦になろうと思っていたので、これもひとつの経験と思い参加した。皆でバスでその施設に向かったが、その車中では、あれもしてこれもしてといろいろと考えていた。ところが、実際に私ができたことは何一つとしてなかった。障害者の人達に声をかけることはおろか、声をかけられることさえ嫌だった。多くの障害者を目にしたその瞬間、私は自分の心がその場を拒否したことを今でも覚えている。障害を持つ人たちと分け隔てなく接することができると容易に考えていた私は、とてもショックだった。2番目のプレイを見た瞬間、その時のことが思い出されて鳥肌がたったのだ。
   −中略−
 プレイバックシアターの最大の目的は、「テラーのその時の気持ちに添う」ということであった。アクターは、テラーの気持ちに共感し、自分なりに考えてそれを体現してくれる。その体現により、形のなかった気持ちが目に見えるものとなる。自分の中にあった同じような気持ちを目の当たりにし、確固たるものとなる。アクターがテラーの気持ちに添い、アクターが私に添い、そして私がテラーの気持ちに添う。「ああ私だけじゃないんだ、みんなそうなんだ、よかった。」という安心感。それがカタルシスになり、鳥肌や震えや涙になったのだ。


 自分の今までの経験では、死に臨んで医療処置にばかり集中して、はたして家族のことを思いやっていただろうか。あのおじいさんの言うことにうなづいて、昔のことを聞いてあげる余裕があっただろうかと考えると自信がない。
 説明の中で「添う」という表現をしていたが、なるほどと思った。私の二十数年の看護経験からも、話を聞いて受け止めるということが大切であることが分かっているので、良い表現だと考えた。私自信ももう少し「添う」ということが無意識にできたら理想的である。
 臨終の場面では、死にゆく人とその家族の今までの関係が見えてくるので、生前の生き様が大切であると考えた。
 従って、残された家族に対する援助として、私ができることは、悲しみや無念さを表現できるように場や雰囲気をつくることと、「添う」という気持ちを持って接することが必要であると考えられる。


 Clientの言うことをそのまま鵜呑みにすると、現象の本来の姿が濃い霧に包まれたかのごとく見えなくなってしまう。その事を防ぐために、我々技術者は主観性を廃し、「何をし、その結果何が起こったか」という冷徹なまでの客観的視点を重視する。あたかも、「主観」はいつでも嘘をつき、役に立たないと言うように。
 しかし、今回“シアタープレイバック”を観て、確信した。
  主観とは、その人が自らの外側で起こっている事柄を認識してその人の“現実”とするモノだと言うことを。


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